【随時更新予定】悪意の連鎖をとめる方法ってあるのか?
悪意の連鎖をとめる方法について昔から関心がある。ネットを徘徊して見つけたいろんな言葉をここにメモしていこうと思う。
*家族を殺された人が、刑務所から出所した人の労働支援を行うドキュメンタリーがあった。のでこれについても書く。
*幸せになるには努力が必要なので、幸せは義務であることを課した監視社会についてもかく
*トルストイの幸せの形は幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」という言葉のように、幸せはある程度指標を設定してある程度は達成できるものだと考える。
幸せになろうとする。
不幸であるから人は悪意を他人にぶつけるのだ。だから全ての人が幸せになるといい。
不幸に甘んじるな。幸せになろうとしないのは卑怯だ。
負の連鎖を断ち切るのが一つの手なんだろうけど、荒らしは対象を変えるだけ。でもこれを聞いて感化された人はいるだろな。このメッセージはあくまでも誹謗中傷した人に対して言ってるのではなく、リスナーに伝えてるんだろなと思った。
人が言葉を伝えるとき、どんな立場の人がどんな立場の人に発しているのかを考えるのは大事だなと思っている。事業で成功した孫正義が、孫正義財団に選ばれた天才に向けて放った言葉を、うつ病で家に引きこもってる廃人が真に受ける必要はない。同じように、人の悪口を言ってしまうほどの心に余裕がない人間が、はあちゃまの言葉を真に受ける必要もないと思う。別に悪口を言い続けろという意味ではなく。心にゆとりのある人が、余裕のない人の悪意を少し聞き流してあげたら、
考えが古代に遡るが、生贄を捧げるのも一つの方法だと思う。この娘を殺しますから、どうか神様、この地に雨を降らせてください、みたいな。なんて馬鹿な考えなんだろうと思うが、よく考えると現代でも生贄という考えは有効なのではないかと思う。
例えばTwitterの炎上がそうだ。Twitterでは毎日のように悪口が蔓延っている。その対象は、主に著名人や政治家である。「強いから弱い、弱いから強い」という慣習のもと、匿名アカウントの人が有名人に向かって一方的悪口を言っている。逆に有名人が匿名アカウントに攻撃をすると大声で被害を訴えるおかしな構造になってる。(国民が総理大臣に向かって「お前は国民を蔑ろにする悪魔だ。さっさと辞任しろ」という言葉を言ってもスルーされる。しかし総理大臣が国民に向かって「お前ら愚民は生きてる価値ないよ」と言えば大問題になるだろう。)
じゃあ金も立場もあり人が羨む立場にいる人を生贄にすれば良いのかと問われると違うと思う。一方的な攻撃を受け続けるのは理不尽だ。そこで存在しない架空のBotを作ってそいつを生贄にし、その人に全人類の悪意を背負ってもらおうという考えだ。
これと同じ考えを持つのが恒心教だ。恒心教は、唐澤貴洋という弁護士や彼の周辺人物に対して嫌がらせをするネット集団である。この集団のサイトを見るとこのように書いている。
教祖が神であり、信徒は教祖を攻撃し、神が全ての責めを負う。これが基本形式です
なんJ板は贔屓球団の違いをはじめとして煽り・対立が絶えることがなく、すべての悪しき感情を唐澤貴洋へぶつけることで、争いや諍いのない優しい世界の到来をもたらすことが期待された。
この考えは一理あるが、さっき書いたように、実在する人物に誹謗中傷を浴びせ続けるのは酷だ。だから、あたかも実在する人物のように振る舞うBotを作り出し、そのBotにみんなが悪意をぶつけ、人々の平安をはかるという考えだ。人の悪意は無くならないし、人は悪意を誰かにぶつけるという行動を全面に受け止めるのだ。これだと誰も傷つく人はいないし、悪口を言う人は悪意をぶつけれてスッキリする。